こっちむいて

さよならだけを伝えるつもりがありがとうと言う

廊下の長椅子とあの子の優しさ

 高校生の時、私はよく過呼吸を起こして保健室のお世話になっていた。過呼吸を起こすようになったのは中学3年生の頃で、普通に呼吸をするのがなんだか息が苦しくて、マスクをしている方が楽に息が吸えると気がついてからだった。それでも3年生のうちは倒れてしまうほどの過呼吸を起こすことは少なくて、なんとかうまくやれていた。

 高校生になって担任になった男性は少し変な人で、女子生徒に気軽に触れるような、いわゆる「距離感音痴」みたいな人だった。集団生活が苦手でうつを患っていた私に対して、他の先生はなんとか進級させようと手を尽くしてくれたけれど、担任は「できないのなら学校を辞めてもらうしかない」というタイプの先生で、それからもいろんなやりとりがあった後に私は頻繁に過呼吸を起こすようになった。通っていた学校の保健室というのは中学生には優しいけれど、高校生になった途端に突き放す。好きな先生と話しながら泣いてしまったのを見られた次の日に過呼吸を起こした時は、ああ、昨日長時間○○先生と話し込んでたから……なんて全く関係ないことまで引っ張り出されたこともあって、本当はすごく苦手だったけど、最後の駆け込み寺のようなところだった。

 高1のいつだったか、担任の授業を次に控えた休み時間に気持ちが潰れてしまい、廊下で過呼吸を起こしてしゃがみ込んでしまったことがある。いろんな友達が大丈夫?と声をかけてくれたけど、さらにパニックになった私はそのままうずくまって呼吸をするのに必死だった。そのうち本鈴が鳴ってみんなが教室に戻って行く中、ずっと私の隣で背中をさすっていてくれた友達がひとりいた。付き合わせてしまうのが申し訳なくて大丈夫、と伝えてもいいよいいよ、とずっと隣にいてくれて、クラスも違ったのに保健室まで連れて行ってくれた。それでも保健室の先生は高校生には厳しいので、早く教室に帰りなさい、まだ今なら遅刻で処理される時間だから、とやっぱり突き放された。友達は「だってこんな過呼吸じゃん」と先生に強く言ってくれたけれど、私がもういいの、大丈夫、と言って、結局友達と一緒に教室の前まで帰ったのだった。教室に帰るまでの階段で友達はおかしい、信じられないとすごく怒っていた。

 教室の前の長椅子で謝る私に大丈夫だよーと笑ってくれた友達は、中学3年生の時にお互い休みがちということで仲良くなった子だった。彼女は高校に進級した後はきちんと学校に来ていたようだし、その次の年には留学して、1年遅れで卒業した。あの時保健室で私の心には棘が刺さって今も思い出すたびにちくちくと痛むけれど、それよりも、あの場で私を守ってくれた友達がいたことの方が年々印象深くなっている。保健室の先生だって意地悪で言っていたわけではなくて、私の単位を心配して突き放してくれていたこともわかっている。それでも、その善意をうまく受け取れずに傷ついてしまった私をその場で守ってくれて、隣で背中をさすって支えてくれた友達の優しさと強さが本当にかっこいいと思った。彼女には今でも本当に感謝している。

 人と接していると、相手にとって何が優しいのか、何が相手のためになるのかというのがよくわからなくなる。甘やかすのも優しさだし、突き放すのも優しさだとなると、どれも正解で、どれも不正解のように見える。優しさを受け取った相手がそれを優しさだと思えば優しさだし、優しさではないと思うとそれは優しさではなくなってしまう。優しさを与えるのも受け取るのも、心がある程度健康でないと難しいのかなと思う。特に与える方は自分に余裕がなければ他者に優しくできないし、受け取る方もひねくれたりかっこつけたりせず、素直に受け取れる余裕や強さがないと相手の優しさをまっすぐ受け取るのは難しい気がする。

 なーんてつらつら書いてみたけど、本当の優しさがなんだかわかったら世界から面白みがひとつ少なくなってしまう気がする。最近始めたイケメン育成ゲームではストーリー進行の中に自分のセリフが選択肢としていくつか提示され、自分で好きなセリフを選ぶようになっている。落ち込んでいる相手にかける言葉や、相手を励ます言葉もいくつかの選択肢になっている。ゲームだからその選んだセリフによって好感度や親密度が上がっていくし明確な「正解」がわかるようになっているけれど、現実ではその「正解」は存在しない。でも、もし現実で相手が求めていることや、してほしいことが全部わかるようになってしまったら、他者を理解しようと思う気持ち、相手の気持ちを自分なりに考えるということはなくなってしまうだろう。それは人間としてあまりに寂しすぎる。他者を100%理解することはできないけれど、相手に寄り添おうとする姿勢が大事であって、結果がどうであれその誠意が相手に伝われば、それだけで多少は救われるんじゃないかと私は思いたい。他者理解の努力を惜しまない世界であってほしい。